狐と死の星

帝都の人々が「運」とか「ツキ」というものに憑かれていた日々。そしてそれが反転した悪夢。そのただ中でさえ、ライドウは絶望しなかった。しかし今現在の状況、これは分が悪過ぎるのではないか。焦りと苛立ちがライドウをさいなんでいた。

銀楼郭は鳴海探偵社。外からは窺い知れぬだろうが、室内にはただならぬ雰囲気が漂っていた。ライドウの管は封じられ、仲魔を喚べず。鳴海は不在…いや、むしろ居合わせなくて良かったのかもしれないが。そして視界の端、床に横たわる黒猫。
「心配なさらずに。眠らせただけですから」
事の元凶、死の星を背負うもの―――アマツミカボシが囁く。ライドウの頬を撫でる両手は、冷たく蒼い炎に彩られている。
「あれとは昔、色々とありましてね…それは後ほど楽しませてもらうとしましょう」
目を細めてくすくすと笑う。その美貌が狂気を際立たせる。白い指がライドウのうなじへと滑ると、ぞわり、総身が粟立つのを抑えられなかった。
「何のつもりだ」
一瞬でも気を抜けば、体がくずおれてしまいそうな圧力。それに抗い、睨み返しながらライドウは問う。
己が仲魔に寝首を掻かれる。それはサマナーにとって最大の屈辱。例えそれが、まつろわぬ神の強大過ぎる一柱であっても。
「目的…ですか」
ふむ、と首を傾げるアマツミカボシ。今頃になって気付いたかのように。

「言うなれば…あなたのマグネタイトを感じる度に、思っていたのですよ。あなたに深く入り込んでみたいと」
ライドウの眉がひそめられる。
「十四代目葛葉ライドウ。あなたは私にとって、初めての主人なのです」
ライドウの頸を彷徨う指先に力が込められる。
「初めて心を許した人間。だからあなたの全てを知りたい。全てが欲しい。当然のことではありませんか」
瞳に妖しい色がさす。それに引き込まれそうになりながらも、ライドウは毅然として言い放った。
「お前は俺の仲魔だ。仲魔である以上、誰であろうと特別扱いする気は無い」
どんな悪魔も、そしてライドウ自身もただの“個”でしかない。個であるからこそ対等であり、その上に掛け替えのない関係を築くことができる。それはサマナーとしての一つのあり方、一つの誇りの形。自分と似た人間、似ていない人間と触れることで選んだ生き方。

アマツミカボシが微笑む。
「そんなあなただからこそ、この身が焦がれてしまうのでしょうね」
どこか寂しそうに。
「多くは望みません。…ほんの少しでいいのです。せめて今は…あなたに触れていたい」
それには答えず、ライドウは目を閉じた―――頸を掴んだままのアマツミカボシの指が、締めることもほどくこともできず、震えているような気がしたから。

柔らかいものが唇に触れる。冷えた果実のように優しいそれは、とても全てを拒絶し続けた神のものとは思えない。体を引き寄せられると、アマツミカボシの纏う冷気がチリチリと伝わってくる。それが常よりも抑えられているのは、気のせいではないだろう。
遠慮がちに入り込んでくる舌を、ライドウは拒まなかった。溶けない氷が口を甘く侵す。生命力とマグネタイトを吸い取られる虚脱感。吐息が荒く、大きく耳を打つ。強く抱き締められる苦しさに、なぜか安らぎを覚える。全てが混ざり合い、冷たいものに触れているはずなのに体が熱くなる。背に痺れが走り、がくりと膝の力が抜けた。その体をアマツミカボシの両腕がしっかりと抱き留める。それに応えようとしたライドウの腕が、ずるずると力無く滑っていった。

視界にあるものが天井だと気づくのに、少し時間がかかった。気を失っていたのか、いつの間にかライドウはソファに横たえられていた。そばに座り込んだアマツミカボシが沈痛な面持ちで覗き込んでいる。
「すみません、つい…加減ができず…」
その言葉に、先ほどまでの記憶が呼び覚まされる。感覚と、感情も。
「…心配ない」
やけに重たくなった体を起こし、学帽を被りなおす。突き放すようなライドウの態度に、アマツミカボシの表情が陰る。あれだけ生命力もマグネタイトも奪ったくせに、その体を包む炎は弱々しくて。
自分は情を捨て切れないような人間だったか。それともこの情が既に深すぎるのか。
「加減ぐらい覚えろ」
なんでもない事のように、顔はそむけたままで告げた。アマツミカボシが驚きに目を瞬かせる。その返事を待たず、言葉を継ぐ。
「ゴウトとあいつらの管を元に戻せ。言っておくが、次は斬るぞ」
「あ…術は、もう少し経てば解けますが…」
きょとんとしているアマツミカボシに向き直り、その額飾りを軽く指で弾く。リン、と鈴のような音がした。
「お前も戻れ。…マグネタイト分は働いてもらうからな」
無感情を装いながら、アマツミカボシの管を取り出す。アマツミカボシは珍しく頬を染めて微笑んで、ライドウにそっと口づけると、管に戻っていった。

誰に言うでもなく、一人残されたライドウが呟く。
「…これじゃ身が持たんな」
さて、ゴウトと仲魔たちにどう言ったものか。気持ちよく寝息を立てている相棒に目をやりながら、深々とため息をついた。

→あとがき
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