お静かに

そこはまさしく書の迷路。道の先は闇に消え、紙魚避けが空気を淀ませる。ちっぽけな明かりでは天井があるか無いかすらわからない。
広大な図書館の片隅で、アルクゥはひたすらにペンを走らせていた。大きな机の上にはそれに負けないぐらい大きな本が重ねられ、ランプの前を飾り羽が往復していた。パタパタと揺れては止まり、揺れては止まり。
ふと顔を上げる。近づく足音に振り向くと、そこには平民姿のアルスがいた。
「陛下!」
思いがけぬ来訪に驚く。だがアルスは答えず、憮然とした表情で立ち尽くしている。
「……陛下? どうしたんですか?」
アルクゥは立ち上がり、いぶかしげに問う。
「…ちゃんとアルスって呼んで下さい」
少し頬をふくらませて言う姿は、年相応の少年らしく見えた。


半月ほど前から、アルクゥはサロニアに滞在していた。あの冒険の中で得た知識を記し、保存するためである。アルクゥが特に習熟していた白魔術の知識は、多くの人々を助けるだろう。各地の生物や地形、気象、風習―――できればもう使われないでほしい黒魔術の知識も、できる限り書き記すつもりでいる。
ウネとドーガが残してくれたものを、誰かに伝えたい。彼らが生きていたという証を残したい。アルクゥはその一心で、膨大な書物と、そして尽きることない白いページと向き合っている。もっとも、あの戦いの日々に比べればなんということもない。もしかしたら少しタフになったのかもしれない、とアルクゥは内心誇らしく思っていた。

アルスの計らいで、アルクゥはサロニアの大図書館を自由に使わせてもらっている。司書や各分野の専門家と話ができるのもありがたかった。
客人の身ではあるが、時たま城に呼び出されることもあった。アルクゥにとって故郷である浮遊大陸と、外の世界の交流が始まっていたのだ。だが二つの世界は長い間分かたれていたため、微妙な“ずれ”が生じていた。故に通訳と言うべきか、橋渡しのような役割が必要とされることもあったのである。


しかし、アルス本人が変装してまで来るとは、どういう事態なのだろうか? その答えはアルクゥの予想とはかけ離れた、実に個人的なものだった。
「…心配だから見に来たんです」
「心配って、何が?」
ふう、とアルスはため息をついた。
「お昼ごはん、食べましたか?」
「…あ」
柱時計を見ると、針はとうに5時を回っていた。そう気付いた途端、ぐううと腹が鳴った。顔が赤くなるのが自分でもわかる。
「そういうとこ、です。夕食前ですから、軽いものを持ってきました」
アルスが抱えていた包みを差し出すと、もう一度アルクゥの腹が鳴った。二人とも笑いが止まらず、必死で声を抑えた。


図書館の裏手の石段に座る。いつの間にか空は茜色に染まっていた。髪をそよがせる風が気持ちいい。
弁当の中身はサンドイッチだった。具の種類が多くて、結構手がかかっている。しかもデザートに果物まで入っていた。嬉しい反面、ちょっと申し訳ない気持ちもした。これからはきちんと時間通りに食べに行こうと反省する。
どれにしようかと迷っていると、横から手が伸びてきた。サンドイッチを手に取ったアルスは、そのままそれをアルクゥの口元に差し出した。これは、つまり。
「どうぞ」
最高の笑顔で言い切った。アルスはアルクゥが断れないのを確信している。…ある意味タフになったのは彼の方かもしれない。
仕方がないのだと自分に言い聞かせながら、アルクゥはおずおずとサンドイッチの端をかじる。その時、合わせまいとしていた視線がかち合ってしまい、慌ててそらした。
ひたすらもぐもぐと、サンドイッチを食べさせてもらう。恥ずかしさと嬉しさとおいしさで、どうにかなってしまいそうだった。

サンドイッチを食べ終わると、果物をアルスと分け合った。こんなに緊張した食事は初めてかもしれない。だが、それ以上の緊張がアルクゥを待っていた。

石段に並んだままぼんやりと、言葉少なに空を眺めていた。二人で会える機会は少ないから、話したいことは山ほどある。しかしアルスは今、休息を必要としているのだとアルクゥは思った。その隣に自分が選ばれたことが、叫びだしたいくらい嬉しかった。
目を閉じて、梢の歌を聴く。木々が大きくざわめいたその時、肩に重みがかかるのを感じた。次の瞬間にはそれがアルスの頭だとわかっていた。滑り落ちそうなぐらいぎりぎりに、少しだけ頭をもたれさせている。かえってアルスの首が痛くなってしまいそうなぐらいだ。だがそれがアルスの精一杯だということを、アルクゥはわかっていた。それから、自分の精一杯も。
ごほん、と不自然な空咳を一つ。
「えっと……う…」
一言で済ませるつもりが、いきなりつかえてしまった。声はこれ以上無いくらい情けなく震えてしまっている。それでも、言葉を繋げる。
「もうちょっと…こっちに来てくれると、嬉しいな」
アルスの頭がぴくっと動く。
「ね?」
アルクゥの呼びかけに、ゆっくりと身を寄せてくる。今度はちゃんと、アルクゥの肩に頭を預ける。
触れていることを意識し過ぎて、何も言えない。温かくて、ずっとこのままでいたい。ふと、いつか寄り添った時と違うことに気付く。
「アルス、もしかして背伸びた?」
「身長ぐらい伸びます」
「僕より大きくなっちゃうかも?」
「当然、なってみせます」
二人してクスクスと笑う。

アルスの背が伸びて、声も低くなったらどんな風になるのだろう。若獅子のように凛々しいアルス王の姿を想像する。それはとても素敵なのに、なぜか切ない気持ちになってしまう。

そっとアルスの肩に手を回す。今はまだ、この腕の中に収まっていてほしい。とてもわがままな願い。いつか追い抜かれる日のために、この日のことを忘れないと誓った。

→あとがき
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