遺されたもの
霧散した意識が、徐々に形を取り戻す。懐かしい匂いがした。久しく嗅いでいなかった匂い。
目を開けて、それが畳の匂いであることに直衛は気付いた。直衛は庭に面した座敷に
横たわっていた。暖かい陽が降り注ぎ、どこまでも静かだった。
ここはどこか。自分はつい先ほどまで泥まみれの負け戦に従事していたのではなかったか。
ふと、違和感に気付く。重苦しい防寒服でなく、着流しを着ていた。温い空気。
それから、自分はどうやら誰かの腿に頭を預けているらしい。
仰向けに首を回せば、そこにいたのは西田だった。
敵部隊を足止めさせるために散らされた、有能で貴重な部下。そして、ただ一人の大切な人。
「これは夢か」
「夢です」
あっさりと返される。
「夢でしか…逢えないのだな」
「ええ」
西田が寂しげな笑顔を見せた。その顔の隅々まで、話し方の癖まで自分が克明に覚えていることに直衛は驚いていた。
「これは夢。ですから、先輩はまだ死なないでください。生き延びてください。こんな夢を見るために」
子に諭すような口調で、西田は直衛にとんでもなく難しいことを要求した。
そのおかしさに直衛の眉間も緩む。
「先輩、起きて」
西田が直衛の肩に手を当て、起き上がるよう促した。
「…こんなことがあっても、いいでしょう?」
現実ではついに叶うことのなかった願い。二人の唇が、確かな体温を持って重なった。
「…もうすぐ夜が明けますね」
「ああ」
元の姿勢に戻り、言葉少なに過ごす二人。この風景には変化が無いが、現実では確実に
時が進んでいるのだろう。
「どうされますか、先輩?」
「俺の目が覚めるまで、膝枕をしろ」
直衛はいつも通りの、むっつりした様子で命じる。思わず苦笑する西田。
「そんなこと言われたって、僕は先輩の見ている夢ですよ」
「それで十分だ」
戦場に戻るまでの、わずかなまどろみ。各々の兵に与えられたそれは嘘のように平穏で、
彼らの心をくじこうとする。だが、直衛は逃げるわけにはいかなかった。
目を閉じれば、どこからか湧いた柔らかいもやに全身が包まれていく。
髪を撫でる西田の指先。柔らかくも張った太腿の感触。それを感じながら、
直衛は夢の中の眠り―――現実へと落ちていった。その体が透き通っていく。
「おやすみなさい、先輩」
最後に西田がささやくと、直衛の姿は完全に消えてしまった。
直衛のいなくなった座敷で、西田はただ庭の花々を眺めていた。いつかあの人に春が来るように、
胸が裂けそうなほど悲痛な願いを込めて。